2010年2月21日日曜日

渋家という企画について僕が書けること。

僕が今から二年前に立ち上げた企画がある。
それはヘルハウスという中島らも自宅の名前を拝借し、2DKの小汚い部屋ではじめたものだった。
当初から決まっていたことは「来るもの拒まず去るもの追わず」と「アーティストの部室にしよう」という二つだけだ。
それから二年、様々な人間模様があり、事件があり、今その企画はこの渋家という企画として続いている。
今では僕は主宰も譲り、楽な思いをさせてもらっている。

現在の僕は、単に主催の中の一人であり、原則として他の主催と変わるところはない。
しかし今回HPを作るにあたって、企画者として、文章を書かせていただけることになった。
そういうわけでわずかながらでも、この企画の趣意を伝えることに貢献できるならと思い、書くことにした。

さて、この企画は現代美術という概念で取り扱われるものだと思っている。

今日において芸術の可能性はあまりにも広い。
そして広さは時に否定的にその枠組みを崩壊させてしまう。
今日ほど「芸術とは何か?」という問いが混乱している時代もないだろう。
もちろんアカデミックにその問いに答えていくストイックな姿勢は存在する。
またあるいは社会の現象がその枠組み自体を日々変えていくだろう。

しかし僕にはそのどちらもが不器用に感じられた。
このような物言いをするとラディカルな原理主義者のように聞こえるかもしれない。
ただ誤解してほしくないのは、僕は一石を投じたい一心でこの企画を始めたということだ。
あらゆることが弁証法的に発展していくならば、僕も何かそこに一石を投じてみたい。
それが僕の一番最初の原動力だ。

意識的なストイック、あるいは無意識的なヘドニズム、その二つの止揚としてこの企画はありたい。
そして僕がこの企画を見ている限り、やはりこの企画はそのように発展しているようだ。
たぶんアーティストとは本来、そのような人種なのではないかと思う。

それぞれが自分なりの止揚を見つけようとこの家に来ればいいと思っている。
そしてそこで起こる人間模様から新しい着地点や新しい仲間を獲得すればいいと思っている。
単なる相対主義に帰結するのではなく、あるいは潔癖症になるのでもなく、清濁併せ呑む器用さを。

そんな姿勢がこの企画にはあるのではないかと思っている。

齋藤桂太

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